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DR.iSHiGURO

CHiMYAKU 探究の記録

流域医療とは何か

山から流れ出した水脈が、樹状に枝分かれしながら大地を流れていく俯瞰図(AI生成イラスト)
山から海までの流域。
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設計
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医師になってから、僕がしてきたことは三つしかない。

詰まりを取る。めぐりを戻す。炎症を鎮める。

薬の名前も、術式の名前も、全部このどれかに仕える道具だった。それを人の身体でやるか、土地でやるか。僕には、違いはそれだけに見える。

僕は医師だ。腎移植の外科から始めて、免疫を研究し、救急をやり、内科に移り、いまは在宅で看取りまで診ている。臓器を一つ切り出して直す場所から、身体を丸ごと引き受ける場所へ、だんだん降りてきた。何科ですかと聞かれると困る。全部やってきたし、いまは全部を一度に診ている。診療のかたわら、里山の土にも手を入れている。

流域医療は、僕が臨床と里山の両方から組み立ててきた、ものの見方の設計図だ。この見方を使うと、僕には人の身体と土地が同じものに見える。なぜそう見えるのかを書く。

人の身体は、「流域」だからだ。

心臓の血管とオランダの川は、同じ形をしていた

2026年2月、PHI(プラネタリーヘルスイニシアチブ)の年次大会で20分もらったとき、僕は写真を二枚並べた。一枚目は冠動脈造影。心臓に血を届ける血管を写したものだ。二枚目は、オランダの河川を上空から撮った写真。

同じに見えませんか、と僕は聞いた。

左は心臓の冠動脈を示す画像、右は大地を蛇行する川を上空から見た画像。中央に「フラクタル分岐」の文字。どちらも太い流れから細い流れへ、同じように枝分かれしている
実際に講演で見せたスライドそのもの。

どちらも、太い流れから細い流れへ枝分かれしていく。大きさが違うだけで、形が同じ。これをフラクタルという。大きさが変わっても同じ形が繰り返される、という意味だ。肺の気管支も、神経細胞の枝も、木も、ロマネスコの粒々も、同じ顔をしている。

なぜ揃うのか。理屈はたぶん、経済だ。限られたエネルギーで、できるだけ遠くまで均等に配ろうとすると、枝分かれの形は同じところへ行き着く。太い管を一本引いて、分けて、また分ける。それが一番安い。血管も、川も、木も、肺も、同じ問題を解かされて同じ形になった。似ているのは、血がつながっているからではない。答えが同じだからだ。

ただし、水の向きは逆だ。血は太い方から細い方へ流れて、身体の隅々に配られる。川は逆で、無数の細い流れが集まって、一本の太い流れになる。配るものと、集めるもの。形は同じでも、そこを流れているものの役目が違う。この「なぜ同じ形になるのか」という理屈も、僕が言い切れるほど決着していない。専門家のあいだでも、まだ議論が続いている。

それでも僕は、僕らが地球の子どもだからだ、と思っている。詩だとわかって書いている。ただ、その下に理屈が敷いてあることは、先に書いておきたかった。

心臓がポンプで、血管が川。毛細血管は、田んぼに水を引く細い水路だ。そこまで血が届いていない身体を、僕は何度も見てきた。冷える。痛む。傷が治らない。

ただし、水は行くだけではない。帰ってくる。むくみは、多くは行きではなく帰りの問題だ。届かないのではなく、戻れずに溜まっている。川も同じだ。海へ出た水は、蒸発して雲になり、雨になって山へ戻る。血の帰り道は静脈で、水の帰り道は空だ。そして土地にも、むくみがある。コンクリートの擁壁の裏で、出口を失った水が溜まる。行きと帰りをまとめて「めぐりの問題」と呼んでいるが、診るときは分けて診る。

山に降った雨が、森に沁みて、地下を通り、川になり、田んぼを潤して、海へ出る。そしてまた、空へ還る。地球にも血管がある。細い水の道が、無数にある。

左に心臓の冠動脈が墨で枝分かれし、右に上空から見た川が土色の大地を蛇行しながら分岐する水彩画。同じ樹状の形が左右で呼応している(AI生成イラスト)
同じものを、僕はこう見ている。

これが、僕が「流域医療」と呼んでいるものの出発点だ。

僕は、水脈を一本一本の水の道、流域をその道がつながって働く仕組み、と捉えている。細い流れを見つめながら、それを支える全体にも目を向ける。

健康とは、しなやかに、めぐること

僕は健康を「しなやかに、めぐること」と定義している。 講演でも、この言葉で伝えてきた。そこには、二つの働きを重ねている。

一つは、レジリエンス。負荷を受けても働きを保ち、変化に適応し、回復していく力だ。僕はその力を「しなやかさ」と呼びたい。押されたら少したわみ、力を受け流す。傷んだところには、もう一度育つ余地がある。公的な医学研究機関である米国国立衛生研究所(NIH)の整理 ↗でも、レジリエンスは回復だけでなく、負荷に耐えることや適応することを含んでいる。

もう一つは、ホメオスタシス。恒常性とも呼ばれ、体温や血糖など、身体の内部環境を生きていける範囲に調整して保つ働きだ。暑ければ汗をかき、皮膚へ流れる血液の量を変えて熱を逃がす。身体は、動きながら自分を保っている。生理学の論考 ↗も、この「保つ」を、数値を一点に固定することとは区別している。

血がめぐり、酸素や栄養が届き、不要になったものが運び出される。その流れを、神経やホルモンが調整する。僕のいう「めぐる」は、こうした流れと調整のつながりまでを含む言葉だ。めぐりながら、全体を保つ。その働きを、この一語に込めている。

変化を受け止めるしなやかさと、いのちを支えるめぐり。僕は、この二つを一緒に診たい。

心拍の揺らぎに、身体の調整を見る

その働きに目を向けると、心臓の音も違って聞こえてくる。

僕は、ゆらぎの豊かさこそがレジリエンスだと考えている。 講演では「ゆらぎが保たれているほど、レジリエンスは高くなる」と伝えてきた。

僕がここでいう「豊かさ」は、短い時間と長い時間のリズムが重なり、呼応する複雑さのことだ。単に揺れの振れ幅を言っているのではない。予想もしなかった変化に出会っても、応じ方を一つに閉じない。その余地に、僕は生きもののしなやかさを見ている。

健康な心臓は、安静にしているときも、メトロノームのように同じ間隔で打ち続けてはいない。一拍ごとに、間隔がほんの少しずつ違う。この変動を、心拍変動(HRV)という。自分の意思とは関係なく内臓や血管を調節する、自律神経などの働きが関わっている。

僕は講演で、このリズムを「自律神経の1/fゆらぎ」と表現してきた。心拍変動の中に見られる、時間の長さを変えても呼応するフラクタルな構造。僕が惹かれるのは、その奥行きだ。ろうそくの炎や小川のせせらぎを眺めるときにも、規則と変化が同居するリズムに心を留めてしまう。

ゆらいでいるのは心臓だけではない。腸は押しては緩めて中身を送り、血管は広がっては締まる。一定になったら、たぶん困る。動きながら、働きをつないでいく。そこにも、僕は身体のしなやかさを見る。

この考えを深めるうえで、Goldbergerらの論文 ↗は手がかりの一つになっている。論文は、心拍に見られる複雑な規則性と、加齢や心不全などに伴うその変化を論じている。そうした構造と、予測できない刺激や負荷に応じる力との関係も考察している。

この見方を携えて、僕はもう一度、土地へ目を向けた。雨の強さが変わっても、水を受け止め、土へ渡し、やがて川へ送り出せるか。変化に応じながら、めぐりをつなげる余地があるか。

壊れ方まで、似ていた

構造が同じなら、壊れ方も似るはずだ。実際、似ていた。鍵は「固さ」にある。

水は、高いところから低いところへ必ず流れる。この勾配が、エネルギーそのものだ。しなやかなら全体に分散される。固いと、分散できない。

山の表面が固くなると、雨は沁み込めず、通りやすいところを一気に走る。走った水は弱いところに力を集中させ、そこが崩れる。土砂崩れ、決壊、洪水。突然の災害に見えるけれど、その前にずっと慢性のめぐり不良がある。僕はこれを流域硬化と呼んでいる。医学用語ではない、僕の造語だ。うまい名前かどうかは、自信がない。

僕が持っている古民家の敷地でも、これが起きた。石垣の上を通る道が、少し前にアスファルトで舗装し直された。地面がまた一段、固くなった。その数か月後、石垣の一部が崩れた。因果を証明する測定はしていない。ただ、固くした場所のすぐ下で崩れたのは、事実だ。

人の血管でも、似たことが起きる。固くなると、しなやかに広がれない。圧が逃げず、弱いところに負担が集まっていく。

ただし、ここで相似は限界を迎える。心筋梗塞は、大きく狭くなった場所よりも、それほど狭く見えない場所から起きることが少なくない。血管は内側が狭くなる前に外側へふくらみ、通り道をしばらく保ってしまうからだ。だから引き金は、狭さそのものではない。壁の一点にかかる力の集中と、そこで燻っている炎症だ。

川は、半分塞がれれば外へ溢れる。血管は、溢れられない。逃げ場がないぶん、力が壁を壊す。同じ形でも、逃げ場があるかどうかで壊れ方が変わる。ここは似ていない。似ていないところまで書かないと、この見方はただの言葉遊びになる。

左の血管は途中で詰まり、その先の領域が赤く染まっている。右の川は水が溢れ、周囲の土地へ静かに広がっている。同じ壊れ方が左右に描かれた水彩画(AI生成イラスト)
詰まった先と、溢れた先。

僕たちは「壊れない街」を目指してきた。コンクリートで固め、堤防を高くし、ダムを造った。

その結果、「戻れない街」になった。

壊れては戻る。崩れて、また育つ。僕は、その営みを土地の健康として見つめている。壊れないことだけが、健康なのではない。

僕が土地にも取り戻したいのは、変化を受け止め、水や空気のめぐりをつなぐ余地だ。傷んだ場所にも、根が伸び、生きものが戻ってこられる余地があるか。崩れたところから、新しい営みが芽生えていく。「しなやかに、めぐること」は、僕が人にも土地にも取り戻したい健康の姿だ。

古民家の軒下で、石垣の一部が崩れ、土が斜面から流れ出している
崩れたところ。(2024年5月撮影)

言い切る。流域を治すとは、強くすることじゃない。しなやかさを戻し、めぐりをつなぎ直すことだ。

自然の形や巡りを生かして整える。それを僕は、Organic Surgeryと呼んでいる。直線化して固定するPlastic Surgeryと対にした、土地への手の入れ方を考えるための比喩だ。ここでのSurgeryは、医学の術式を指すものではない。

壊れ方には、段階がある。澱む、詰まる、涸れる。いきなり涸れるわけじゃない。最初はただ、澱んでいるだけだ。

水路の三段階の変化。左から、渦を巻いて澱んだ流れ、土砂で塞がれ詰まった流れ、ひび割れて涸れた川底(AI生成イラスト)
澱む → 詰まる → 涸れる。

土地にも、カルテを書いている

冒頭に挙げた三つのうち、土地の話でいちばん通じにくいのが「炎症」だ。

炎症とは、免疫の発火だ。何かを排除して、治そうとしている反応。炎症そのものは味方だ。困るのは、それが長く続くほうだ。

土地でも同じことが起きている。土地の場合、教えてくれるのは植物だ。

僕が入ってきた放棄地では、最初に来るのはたいてい篠竹と葛だった。次が雑木やセイタカアワダチソウ、そのあとにくっつき虫の類やイネ科。順番があるように見える。生えているものを見れば、その土地がいま炎症のどの段階にいるのかが、だいたい読める。

ただし、来る理由については、僕は長いこと逆に考えていた。窒素の余った土だから葛が来るのだと思っていた。葛はマメ科で、根に住みついた菌が空気中の窒素を土に取り込む。つまり葛は、窒素の多い土を選んで来るのではなく、来て窒素を増やす側だ。実際、クズが覆った土地で窒素の回転が何倍にも上がったという報告がアメリカにある(出典は文末に置いた)。日本のクズで同じことを測った研究は、まだ見つけていない。指標にするなら向きが逆で、葛がいることは「原因」ではなく「もう始まっている」という目印だった。

水はけが悪く、土が固く締まった場所は顔ぶれが変わる。ドクダミとスギナが来る。もっと澱めば蚊が湧き、隠れ場所のある湿った物陰にはゴキブリやムカデも集まってくる。

もう一つ、まだ説明できないことがある。西日本の放棄地では、篠竹と葛がほぼ必ず組で来る。篠竹が一メートル少しの高さで面をつくり、葛がその上を這っていく。巻きつく蔓は太い幹より細い支えを好むから、篠竹の茎の太さはちょうどいい。そう見えているのだが、この組み合わせを調べた研究を、僕はまだ見つけられていない。

この見立てが使えるかどうかは、対応の数ではなく、処置が変わるかどうかで決まる。篠竹と葛が茂っていれば、僕は炭素を入れる。ドクダミとスギナなら、まず水を抜く。見立てが変われば、手が変わる。

そして炎症は、最後に乾く。バサバサ、カチコチになる。山火事も、皮膚炎に似ている。落ち葉が減り、菌や虫が減った山は水を持てない。表面がすぐ乾き、火がついたら止まらない。皮膚も、表面の層が薄くなると、ちょっとした刺激で赤くなり、なかなか引かない。燃えるのは表面だが、燃えやすくしたのは中身だ。

だから僕は、土に手を入れている

大阪府内で里山再生をやっている。自宅の土地でも同じことをやった。慣行農法の跡地で、カチコチだった。農薬と化学肥料を使う、いまの普通のやり方だ。窒素ばかりが余って、炭素が足りない土に見えた。土壌分析をしたわけではない。生えているものと、握ったときの手応えと、匂いで、そう判断した。落ち葉、竹炭、くん炭(籾殻を焼いた炭)、藁、ウッドチップを入れた。炭素を返した。

2年経って、地面はクローバーとダイカンドラに覆われた。自然落下の種子から芽生えた実生の木々も、一気に増えた。ホタルは、もともとこの土地にちらほら飛んでいた。手を入れてから、毎年増えている。ゲンジとヘイケが同じ場所にいる。あれが返事だった。

土地には、落ち葉と石と水を返している。

落ち葉を殖やす。 これは地球のスキンケアだ。落ち葉が積もり、菌が分解し、腐葉土になる。ふかふかの、いい土だ。

石を配する。 これは地球のストレッチだ。石を置くと水がぶつかって向きを変え、速い場所とゆっくりな場所ができる。瀬と淵。つまり、緩急。まっすぐな水路には、それがない。僕は石を置きながら、土地にゆらぎを返しているつもりでいる。

水で潤す。 これは地球の点滴だ。軽く溝を掘って水を通す。溜めるんじゃない、潤す。止めるんじゃない、めぐらせる。

2026年3月、大阪市内のT保育園の園庭で、これを図面に落として着工した。剪定枝と落ち葉、炭、腐葉土、籾殻、土を、ミルフィーユみたいに層へ積む断面だ。条件は一つだけ付けた。完成させない。育てる。

大地の断面図。地表の若草の下に、枝・落ち葉・炭・腐葉土・籾殻・土が何層にも重なり、根と水が層に沁み込んでいる(AI生成イラスト)
層に積む断面のイメージ。

難しい技術じゃない。要るのは、やる気と心だけだ。でも、やらなければ流域は戻らない。

次は、数字で確かめたい

環境再生を続けていると、流域が返事をし始める。風の抜け方が変わる。土の匂いが変わる。それが読めるようになったころ、自分の身体の返事も聞こえるようになった。ただ、風も匂いも、いまのところ僕にしか見えない。だから次は、可視化するために測りたい。

土の側で測るのは四つ。土の硬さ。棒を挿したときの手応えで、貫入抵抗という。水の浸み込む速さ(透水性)。そこにいる生きものの数。四つめが、何が生えているか。詰まりは硬さで、めぐりは浸み込み方で、炎症は植生で測る。三つ目まではよくある土壌の調べ方で、四つ目は植物のほうが先に知っているというだけの話だ。

高い機械は要らない。これは、僕の医療のやり方と同じだ。在宅では、大きな検査機器を持ち込めない。視診、聴診、打診、触診、それに聴診器だけで診てきた。土地も同じだ。手を入れる前と後で、同じ場所を同じやり方で見るだけでいい。難しくはない。四つとも、手を入れる前と後で測る。もし手を入れた場所で、どれも動かなかったら、少なくとも土地の側では、この診立ては間違っている。

人の側では、心拍変動を手がかりの一つにしたい。固い場所と、めぐっている場所とで、リズムの出方が違うのかどうか。測るときは、姿勢や呼吸、活動、測定機器などの条件を揃える必要がある。差が出ても、それだけで健康になったとも、土地の効果だとも言えない。何を確かめたいのかを絞り、設計してから測りたい。

最後に、測れないことを書く

生態系が戻ると、人は耕せる。耕すというのは、僕にとっては頭の言葉じゃない。土を握ったときの手応えと、石を積むときに手のひらが覚える重さの話だ。その感覚が戻ってくる土地を、人はそう簡単に壊さないし、奪わない。流域を治すとは、平和の土台を作ることだ。測れないまま、本気でそう思っている。

しなやかに、めぐること。

だから、僕は石を積む。

同じ場所の石垣が、ひとつずつ手で積み直されている。石の隙間からシダが生えている
同じ場所、5か月後。積み直した石垣。(2024年10月撮影)

根拠と限界

ここまで書いたことのうち、僕が「見た」と言えるのは、自分の手が入った土地のことだけだ。自宅の土地に炭素を返して、2年で草が覆い、実生が増え、もともといたホタルが毎年増えている。これは僕の観察であって、施工の前後で土の固さや水の浸み込み方を数値で測ったわけではない。だから「こうすればこうなる」と一般化して言うことはできない。

レジリエンス、ホメオスタシス、心拍変動には、それぞれ研究の蓄積がある。それらを「しなやかに、めぐること」という健康の定義に重ね、身体と土地をつないだのは、僕自身の整理だ。心拍の揺らぎと土地の状態との関係は、まだ測っていない。流域医療は、証明された治療法ではなく、僕がものを見るときの設計図だ。だからこの記事の知識状態は「設計」にしてある。

「ゆらぎの豊かさこそがレジリエンスだ」というのは、僕の健康観としての主張だ。引用した論文が両者の同一性や比例関係を証明した、という意味ではない。心拍変動の数値一つで、その人の健康や回復する力の全体を判定することもできない。身体のホメオスタシスと生態系の変化は異なる仕組みであり、土地がいつも元の状態へ戻るという主張でもない。

この記事は一度書き直している。最初の版で、動脈硬化について「詰まった瞬間に壊れる」と書いた。機序としては逆向きだったので、本文を直した。似ていることを言いたいあまり、違うところを丸めていた。

言えないことも、はっきり書いておく。流域医療で特定の病気が治る、とは言わない。環境を再生すれば健康になる、という因果の一本道も引かない。山の保水力から水質へ、作物へ、腸へ、脳へ。この連鎖は、一つひとつの区間に研究があったとしても、繋げて一本の矢印にした瞬間に、僕の想像が事実の顔をしてしまう。それはやらない。

僕がいま言い切れるのは、ここまでだ。詰まりを取る。めぐりを戻す。炎症を鎮める。それを人の身体でやるか、土地でやるかの違いしかない、と僕は考えている。そう考えて動いた土地で、もともといたホタルが毎年増えている。それがこの見方のおかげなのか、ただ時間が経ったからなのかは、まだ言えない。言えるようにするために、次は測る。

根拠